kei 「蜘蛛の糸Ⅱ」

2023年3月退職 後の生と死を「絵と言葉」で考えたい…4月からは「画家」か?「肩書を持たないただの人間」として生活していこうと考えています。

「知識と知恵」②

不人気の内容だと納得しながら書いていることでもあるけれど…

「『教育』を救いたいとか何とかしたい」という気持ちはあまりない なぜなら教育は「単に活動に過ぎない」と思っており 大切なのは「人」に決まっている

「民主主義」が当たり前だと思っている人がいるかもしれないが 世界では「完全民主主義国」の割合となると7.8%しかなく 「独裁政治体制国」は39.4%である 

「民主的に 公平に 自由意志によって生きられる社会や環境」はこれほど科学技術が発達しても インターネットが普及しても「成し遂げられていない」と考えた方がいいのだろう それには「教育」が深く関わっている だから考え続けている

 

義理の息子である娘婿は大学で「教育学」等の講義をし 教師を育成する仕事を担っている そこで前回の記事について指南を仰いだ

様々な事柄を一つ一つ丁寧に回答してくれた 一部を載せると

◯総合的な学習の時間と学力について
1998年改訂の学習指導要領(いわゆる「ゆとり」世代の学習指導要領)で入り、学力低下論争(PISA調査の2003や2006が出た頃)のなかで「失敗」と見做されたものですが、これに対する見解は様々です。

国際学力調査について、PISA(国・数・英)は義務教育を終えた学年(高1)、TIMSS(理・数)は10歳(小4)と14歳(中2)に対して実施されます。そして学習指導要領はご存知の通り移行期間がありますので全面実施されるのは2002年から。そして、この時期から、2003-2006年頃の学力低下批判にさらされますが、学力はテストを受ける「前」の複数年間(あるいは10年単位)をかけて形成されると考えられます。

とすると、本来批判されるべきは、98年より前の指導要領であり、総合的な学習の時間等ではないように思われます。

そして面白いのが、日本はPISA2009ないし2012で順位を回復し、「脱ゆとりの成果」と文部科学省自身も述べるようになります。しかし、ここでPISAを受けた世代は、98年版の学習指導要領でほとんどの時期を過ごした児童生徒なのです。(総合的な学習の時間が減った2008年版の学習指導要領の全面実施は2011年からですので)

ゆえに、実のところは、いわゆるゆとりの学習指導要領が一番、学力を伸ばしていたのでは…?なんていう議論があります。

参考:佐藤博志, 岡本智周(2014)『「ゆとり」批判はどうつくられたのか』.太郎次郎社エディタス

とはいえ、総合的な学習の時間の導入が稚拙かつ、先生や学校での質のばらつきが酷く、仰るような「知恵」を育むものに出来ていたかというと怪しいように思いますし、それは現在でもそうだと思っています。
また、初等教育では他国以上に、教科横断や探究のような先生方の創意工夫が求められる教育実践に一日の長が日本にはあると思うのですが、中等教育でそれが維持できない(入試等のせい?)のが残念でありますし、これをどうにかできないかと日々思っています。

フィンランドの学力について
2000年代初頭は世界一ともてはやされましたが、PISA2018やPISA2022では沈み込んでおり(他の北欧諸国もそうなので、移民の影響も大きいとされてます)、昨今の世界一はどうやらシンガポールや韓国、日本などのアジア(おそらくは知識偏重の国々)になってしまっています。あとはOECD加盟国だと、ICTに強いエストニアが強いようですが、エストニアは情報が少なく、書籍も含めてあまり当方も理解できていません。

◯日本について
私としても納得はいってないのですが、最新のPISA2022では日本が数学的リテラシー・科学的リテラシーOECD加盟国37か国中で1位、読解力で2位を取ってしまいました。

また、コロナ禍に対して、レジリエントな4つの国・地域(数学の成績、教育のウェルビーイング(学校への所属感)、教育の公平性(社会経済的背景)による得点のばらつき、の三つの観点で安定ないし向上が見られた国。日本、韓国、リトアニア、台湾)にも入ってしまい、かなり優秀な結果になったと見なされています。

この意味で、世論等々も、現行学習指導要領で「成功」したと言い出しているので、現在の方向性が維持されてしまいそうです。

本来であれば仰るように、「知恵」を育めるように。何でもかんでもビルド&ビルドで詰め込んだ現行学習指導要領のような形ではなく、先生方の創意工夫を活かせる形の教育であるべきと思うのですが、なかなかままなりません…。

学習指導要領の存在自体は有用だと思っているのですが、その余りに強い基準性や、詰め込み過ぎた中身(&縛る割には具体性が低い)については、現行の在り方は不十分ではという立場です。

ということで①現在の学力1位はフィンランドではないこと ②日本・台湾・韓国等の国が逆にランクを上げ そのため 現在の学習指導要領は「成功している」と判断されている節があること ③実践と結果にはタイムラグが常に付きまとい 学習指導要領も試行期間も設けられているため「ズレ」が生じる そのため「ゆとり教育」はむしろ「成功だった」という学者の意見もあること

…と私の記事を矯正してもらったわけだが 組織であっても 個人であっても 見方や考え方が異なるのは当たり前で だからこそ対話の意味がある なので物事バッサリ「成功」「失敗」とは言いにくいもので 風が吹けば困る業種もあれば「桶屋」は儲かる ということが同時的に発生する

彼との対話も「どうすりゃいいのか?」を自分なりに語っているに過ぎないことを十分わかって互いにやっている

ただ2人共通に感じていることは「知識偏重型教育」という日本や韓国・台湾などの教育の実態で これには国も何とかテコ入れをしようとしている という事だと思う

 

知識は「食材」である 知恵は「調理」と例えることもできるだろう どちらもないと食事ができない つまりは知識と知恵は「必然的に連結しているはず」なのだが 巷にコンビニが溢れかえり それをレンチンするばかりでは 調理の腕が上がらない これが今の日本の公教育なのだろうと思うし それが国の屋台骨に大きな影響を及ぼすだろうことは察しがつく

 

では まず先にどこに手を加えればいいかを考えた

 

私は「初等教育」だと考えた

先の大学講師の言葉では「初等教育は比較的柔軟でうまく行っている 問題は中等教育=高校の入試制度?」と言っているが 初等教育は「まだまだ 全く不十分な状況」だと私は思う

小学校の先生は「児童の発達」を大事にする

そのため「図画・工作」の時間に人物を描かせる場合「年齢に応じた人物をえがかせようとする」 しかしこれは「美術としては大きな誤り」である

自閉スペクトラム症など何なりかの発達障害を有している子は 「丸い顔から手足が伸びた人物=頭足類」を描いたりする すると先生は「体はどこへいったの?描いてないじゃない!」と言い出す しかしその子は描いているのだ「丸の中に顔も首も胴体も含まれている もしくは端的に表現された人間」 なので先生の指導は「ただひたすら大人っぽい絵のようとしているだけで『芸術』とは全く違う観点で教えていることになる」 そうこうしている内に絵の嫌いな児童が増えていき 苦手意識は大人になっても消えぬままとなる。

発達がマトモな子 発達障害のある子を振り分け より効率的に発達を促そうとする教育の裏には「自分のようなマトモな大人をモデルとして それに近づけさせようとする」という自惚れがある

これで「知恵」など育めるものか。と首を傾げる

 

結論から言うと 小学校教育が優れていれば それは中学から大学まで引き継がれる可能性があり 小学校の段階で知識のみならず 同時にイヤというほど「知恵」を使わせなければならない

以前の記事で「とある小学校で『ロシアのウクライナ侵略を止めるにはどうしたらいいか?』」という教師のアンケートに対し「プーチンをぶっ殺す」という回答があった この回答に対し直ぐに「道徳」と結びつけて考えるのは危うい なぜなら このような回答もまた「知恵を用いた解答」であるに違いなく 知恵を使った点において評価すべきだろう 実際歴史は「暗殺の歴史」と呼んでいいほど頻繁に行われ 国や世界が変貌していったのだから 「殺す」解答はむしろマトモとも言える

ただし 「過去にも暗殺の取り組みはさんざん行われてきたのに 今尚達成されていない 暗殺失敗を繰り返すとガードはより堅固になる」ことを考慮すれば「プーチンを殺すことが出来なかったらどうする?」と尋ねる必要はあるだろう さて その児童はどう答えるだろう…

だがこのようなやり取りもまた面白い 国は今より3倍の予算と教育理念 指導の仕方 手間暇…あらゆることに「小学校」に目いっぱいの力を注げば 科学・経済を含め変貌する可能性がある

 

今度は小学校の美術講師になってみたい 免許持っていないけれど…(子どもが好きというわけではない)

 

kei

中学校で一点透視図法が「正しい描き方」だと教える美術の先生がいたとしたら「バカじゃね?」と私は思う あれは「発明」であって「単眼」の光景 何よりこんな廊下 奥まで歩いて行ったら狭くて歩けない