kei 「蜘蛛の糸Ⅱ」

2023年3月退職 後の生と死を「絵と言葉」で考えたい…4月からは「画家」か?「肩書を持たないただの人間」として生活していこうと考えています。

「なぜブログをやっているのか?」

日本語の成り立ちや言語としての特殊性 高い難易度等いろいろ調べた

弥生時代古墳時代は「話し言葉」しかなかった それは「やまとことば」と呼ばれるようになり 沖縄では今でもやまとことばが残ってる

「東風」 これを「とうふう・ひがしかぜ」と読むのは漢字が入ってきた後であり 元々は「こち」と発音する 「南風」は「はえ」と発音する なので やまとことばとして正統な日本語は沖縄弁の中にある もしかしたら沖縄から日本語が少なからず渡ったのかも知れない

平安時代 藤原氏との権力闘争に敗れ九州大宰府に左遷された右大臣 菅原道真

「東風吹かば 匂い起こせよ梅の花 主なしとて春を忘るな」 平安時代にもまだ「東風」は「こち」と発音していた

ただそれより以前の大化の改新の頃 国の実権を握り天皇と多くの姻戚関係を結んだ「蘇我氏」は 日本を中央集権国家と変えていく目的もあって「仏教」を導入し広めた 持ち込まれた仏典は全て中国語 即ち漢字なのだが 話し言葉としての「やまとことば」と「漢字」がゴチャ混ぜの様になってしまう

アメリカを「亜米利加」と書くように イタリアを「伊太利亜」と書いた なので今でも日本よりコメが好きでもないのに「米国」と呼称するわけだが これらは全て「意味の無い当て字」

そして書き言葉として漢字を導入した際 夥しい当て字が発明され そのため中国風の「音読み」やまとことば風?の「訓読み」のような 書き言葉としてはレベル6だったか7だったか…世界最高難易度の言語になってしまった

ともかく高校卒業してももマトモに本が読めない という現象は日本語の難易度の高さにあり 習熟するには英語などより はるかに長い年数を要するようになってしまった

 

ということでブログは 私にとっては「書き言葉の練習」が主である

では「日記」と同じではないか?と言われてしまいそうだが 他の人々に公開する事で 書き方 表現の仕方に注意を払うようになるので やはりブログが向いている気がする

 

ただしこうしてブログを書いて 「なるほど!」と分かったことがある

話し言葉と書き言葉 さらには活字として印刷された言葉は それぞれ「強さ」において全く異なるということだ

声で「死ね」と言ったとする 言われた人は傷つくが LINEで「死ね」と書かれれば傷口はさらに深くなる それが複数人に言われた場合 学校に行けなくなってしまうのも当然だ 書き言葉の「死ね」は相手に深い傷を負わせる それを十人から送られたとしたら刃物で傷つけられる 胸を刺される程の痛みではないかと察するので 50年前のいじめとSNSを用いた現代のいじめでは「加害・被害の度合いが違う」

それは宣伝であってもプロパガンダであっても国会答弁であっても(記録される)「経済再生5年計画」でも 同じである 言葉で言うのと「冊子となり配布される」のとでは全く違う 活字となって広まった言葉は「断定的かつ限定的で」言葉の強度としては最高レベル

だから憲法も各種法令も細心の注意が払われているはずだし 教育で言えば「学習指導要領」なんかがそれに当たるが 「ともかく全て良くなりゃいい」 表現だけ一部をすり替えているているようで殆ど変わらず 問題のある記述がみられると騒がれるためか 何処に行こうとしているのか ベクトルさえはっきりわからない 尻尾を噛んでグルグル回転しているトカゲのような でなければ虚ろなお経のような代物に代わっている それを5年おきに繰り返している …バカである

 

私は話すことがあまり好きではないし 上手くもない だから「絵」で心を表出してきたのだし… まして書くことは更に上手くない だが だからこそこうしてトレーニングしているんだと思う

 

今 これを読まされているお方 お付き合いいただき感謝を申し上げつつ恐縮する次第。ありがとうございます。

万葉集」では漢字とやまとことばが未だ「融和されていない」そのため漢字と送り仮名が混在しているが「古今和歌集」になると随分と成熟し 日本語らしくなっていく

 

kei