kei 「蜘蛛の糸Ⅱ」

2023年3月退職 後の生と死を「絵と言葉」で考えたい…4月からは「画家」か?「肩書を持たないただの人間」として生活していこうと考えています。

「サイコロと未来予知」

安部公房の小説は今読んでも面白い 設定・展開・オチと3拍子揃っている

「第四間氷期」という小説がある 随分以前の小説 1959年作

設定となる冒頭は あらゆるデータを注ぎ込んだ「スーパーコンピューターの誕生」

ここで安部はそのコンピューターの恐るべき能力を付与させる それは”サイコロ”

ただのサイコロというところがミソで コンピューターはサイコロを振る寸前 出る目を当てる能力を持ってしまう

サラリと流されるように書かれているこの下りが 現代社会と異質であることに 読み進めていても 私は気づかなかった

 

現代は「計画の時代である」 政治経済もそれに組み込まれている

現代は「予測の時代である」 雲の動きなどから明日の天気が予測できる

 

けれど「予知の時代ではない」

 

過去にノストラダムスとか「予知能力者」と呼ばれる超能力者が有名になった

まがいものに決まっている 

もし氏が予知能力を有していれば連続10回サイの目を当てられるだろう

けれどそのような能力をもった者は過去も現在にも地球上に存在しない(多分)

 

なので「計画を立て予測は出来ても ヒトは予知能力を持っていない」

 

当たり前の話だろがっ! と叱られそうだが…

これらを混同している 組織 会社 学校 宗教 自己啓発セミナーがしばしばみられる それらを創設した者は 多くの人を集めたいために「予知的発言」をしたりする だがその人はサイコロの目を当て続けることができないという点で予知能力者ではない そのため 精度の高い予測は出来ても完璧ではなく 間違いがある

私も未来を 予測し計画したりするが…それが当たるとは限らないし

それが仮に「絶望」だったとしても 不完全という意味で「思い込み」だと思う

未来予知は それ以外の”生み出され 描かれる未来”と別の次元にあると言ってよく

テクノロジーが発達し続け サイコロの目を当て続けられるコンピューターができた時 その時はもう 別の社会に変わっている というより 人間存在自体が意味を失ってしまうかも知れない 

 

繰り返しになるがニュースや世論や論調で語られる未来は「予知」のレベルに達することは無く あくまで「予想図」に過ぎないという事だと思う

下手な希望を持つのも危ういかもだけれど 絶望もする必要もない気がする

それよりは”どんな目がでても生きていける”に越したことはない

kei


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味気ない話だったのでw