kei 「蜘蛛の糸Ⅱ」

2023年3月退職 後の生と死を「絵と言葉」で考えたい…4月からは「画家」か?「肩書を持たないただの人間」として生活していこうと考えています。

「根無し草かタンポポの綿帽子」

車が置いてある駐車場は400mほど距離があり 最短距離を通るには2つの公園を斜めに通るのがいい 駐車場に近い(つまり遠い方)の公園は広く立派で シーサーの形をした大きな滑り台があり 遊具も充実しているので 午後ともなればディサービスの子供達と大人がボール遊びなどして 歓声が聞こえる

初めに横切る公園は樹が生え 薄暗く小さいので 高校生とかが夕暮れ後 隠れてタバコとか吸うのに向いている公園 でもこの公園を歩くとき 私は「樹木」の存在を強く感じる

広く張られた根のせいで地面はボコボコ。こんな樹が何本も植えてあるので 走り回れる場所じゃない けれど私はこれらの樹木に畏敬の念を持つ 移植されて何年ではなく おそらく何十年経つのだろう まるで「樹木のための公園」みたいだ

植物は「種が落ちた場所が生きる場所」 コンクリートの上だったら消える命

動けないからこそ こうして広く大きく根を拡げて生きる 「植物」

 

では動物である私はなんだ? 風に流されて遠くまで飛んで行くタンポポの綿帽子?

それとも「根っこがない雑草」みたいなものか?

北海道で生まれて アッチコッチで生活し 2月中旬だと言うのに25℃に達する天国沖縄からも離れようとしている まるで風に飛ばされるように住処を変える

「ウロウロする生物が動物の習性」とも思うけれど 沖縄で生まれて生涯過ごす人々もいれば 寒さと雪の北海道で私の親類は生活している 浅田彰流に言えば「パラノイア型」と言えるんだろうが…分類しても納得できるものでもない 地元に居なければならない理由もあるのかもしれないのだし…

 

私は「名古屋」に移住するのじゃない

 

タンポポの種として フワフワとどこかに飛んでいくだけで 着地点が名古屋だろうという話

 

そして 自分が動物であってみれば「どこだって地球の上」 だから根など要らない

「どこでも故郷みたいなもの」と思えばいいのだと思う

 

 足下に地球という母なる大地がある

 

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