kei 「蜘蛛の糸Ⅱ」

2023年3月退職 後の生と死を「絵と言葉」で考えたい…4月からは「画家」か?「肩書を持たないただの人間」として生活していこうと考えています。

「これからの私と絵は…」

「感性」という 分かりそうな よくわからない言葉がある

絵を描く場合「感性」がモノを言う ただし個人の中で感性は変化し続ける

以前の記事で「私は個体 私は液体 私は気体」と言う記事を書いた

読まれた方にはどうという事もない話だけれど 私自身にとっては「感性の転換点」だった 今も どこにいても 外を歩いている時も 私は私自身を「独立した個体」と認識しなくなってきた

以前も紹介したが 北海道の画家「深井克美」の「ランナー」

30歳 この絵を描いている間 飛び降り自殺をしたので「未完」ということになっているが 私には「これ以上描く必要が無い」という意味で 完成でも未完成でもない絵として映る

今の私にとって人間は 深井のこの絵のように「茫漠とした存在」として感じられる 

「これこそ人間」と思えるほどに…

ニュースでは「有名人の誰それが何をした 何を言った」とか「老後生活の予測計算」ばかり載っている 内容の質が「個体的」であり「独立個人」に偏っている このような国は正直下らないと私は感じる

 

例えば昨日「花」を見た

植物は日が出ている間 呼吸しながら光合成をおこなっている

つまりは 動物と同じように 酸素を取り込み二酸化炭素を排出しながら 全く逆の反応を 光によって行っており それによって栄養を作り生きているわけだ では光合成をする植物にとって光とは 「生きる糧」であるという見方とは反対に「光など様々な要素から生じた生物」だと考えれば 決して独立した存在ではなく 温度 土 水 そして光と融合した存在だと言えると思う

動物もまた同じ 光 熱 酸素 他生物 諸々の人間の思いや思想 色んなものを取り込みながら生きている「不定形でモヤモヤした存在」なのでは と今は思う

 

「私」などというハッキリした存在は無いのじゃないか?

 

深井克美は最期にそれに気づいてこの絵を描いた気がする それまでは

硬質な絵だった

 

今は本気で絵を描いていない

それは自分の感性が変わりつつあるからかもしれない

生き方と表現は相互に反応し合う

今までとは異なる感性で感じ取りたいと思っている

 

kei