kei 「蜘蛛の糸Ⅱ」

2023年3月退職 後の生と死を「絵と言葉」で考えたい…4月からは「画家」か?「肩書を持たないただの人間」として生活していこうと考えています。

「今の結論」

今後変わるかもしれないので「今のところの私の中の仕切り線」みたいなもの。

今日で仕事は終わる 無事帰って来られれば「無職の男」の出来上がり

当分やることは 引っ越しのための片づけで 今はゴチャゴチャで絵を描く空間もない

でも 頭の中は逆にスッキリしている感じがする

 

「なるようになる」

 

頭の中で この言葉だけが「多分本当」と告げている

 

学びとしても 経験としても出てきた 私なりの結論である

ゴーダマ・シッダールタ 荘子 老子 大江健三郎 一休宗純 今なら養老孟子

皆口をそろえて そう言っている気がする ビートルズもそうかもしれないし 英語では「Whatever will be, will be」その影響を受けたフランス・スペイン語では「Que Sera, Sera」となるだろうか 歌でも映画でもそう語られている

ただ「なるようになる」というのと「なるようにしかならない」というのは同義じゃない そんなに幅は狭くない

 

世界では大きな戦争が行われていて 不条理 理不尽 残酷が行われている只中

「救うべきだ」「何とか解決のために働くべきだ」ごもっとも…これも「なるようになる」の中の一つだから

だから「人事を尽くすこと」「精一杯生きること」「頑張ること」も 日々変わる雲のように 海のように… 変化は防ぎようがないという前提で「なるようになる」

気力・無気力の問題じゃない

 

論語では 齢「五十にして立つ」といい 六十にして「耳順」といって「他人のことばがすなおにわかる。」そうだが 61にして私は立ってもいないし 他者の言葉を素直に聴けるわけじゃない だが肩の力は抜け 自分の今後や老後のことは アレコレ悩み 想像しても「大して意味は無い」とわかってきた なるようになるのだから…

肩に力が入るのは「惧れ」と「欲望」に起因していることが少なくない気がする

そうしたところで 生きる人は生き 死ぬ人は死ぬ

鳥山明氏 TARACO氏 まだ60代で鬼門に入られたが「早い」わけではない

「平均寿命」から算出した「生きられる年数」を信じるのは現実といえるものじゃない 人生100年時代? 100年生きた人はそう言わない

 

ふと春秋時代を生きた老子の言葉を思い出す

「濁ってしまった水は 清むまで待つしかない」

「人生は変化し続けるもの あるがままを受け入れ 物事をそれが進みたいように自然に前に流れさせてやるべし 変化に抵抗してはならない」

「不幸は幸福のうえに立ち 幸福は不幸のうえに横たわる」

「白雁は白くなるために水浴びする必要はない あなたも自分自身でいること以外に何もする必要はない」

これらの極めつけに「荘子」の言葉がある

万物斉同

良きことも悪しきことも 良い人も悪い人も 有能も無能も違いがなく 実はただ一つしかない というもの…

 

んじゃ 努力や 学びや 病気や ケガや 死を含めて

「なるようになる」だけだ

今はそれでいいと思うし もしかしたら生の間際までそうかも知れない

 

kei