kei 「蜘蛛の糸Ⅱ」

2023年3月退職 後の生と死を「絵と言葉」で考えたい…4月からは「画家」か?「肩書を持たないただの人間」として生活していこうと考えています。

「死について」

生きている者にはどうしたって 知り得ない 体験できないこと。

逆もまた同じで 生きている者にしか 死について考えを巡らせたり 想うことは出来ない。

死への考えや想いは 世相や時代や年齢によって 何故か変化していき その途上なので「結論めいたこと」など言えるわけもない

 

若い知人が東京の介護施設で働き始め 1年余 認知症や肢体不自由状態のご老人にむかって小声でか 心の中でか「このっ。クソババア はよ死ね」と呟くことがあるとのこと ベテラン 初心スタッフ問わず 内輪ではよく口にされる言葉だと言っていた

私は よろしくない感情だと感じながら 正直だとも思ってしまう 人間皆マザー・テレサみたいじゃない それに肢体不自由状態の人々の下の世話や寝かせ方 あらゆる世話に至るまでどれ程手間がかかり 神経をすり減らすか 体験的にも知っている「体に密着させて3人で抱き上げる?」…そうやってしまうと 大腿骨脱臼状態がとても多い高校生等は「脚がコキッ。と鳴った瞬間 救急車を呼ぶ羽目になる」なので セオリー通りできるはずがなく 腕を伸ばした非常に不自然な状態で 50kgの体を持ち上げ 下痢の時には1時間おきに 洗い場で洗い流さなければならない こんなことを朝から午後3:30まで繰り返すので 当然ほとんど腰痛が持病になる。

もっとマシンを導入すべきだと思う フォークリフトを使って上げ下ろしするのがいいし 布団もそのように下に板を敷けばいい これから老人だらけになる日本なのだ テクノロジーが発達しているのだから 安全性と機械化は必然的な道筋だと思う そこに「愛」だ「情」だ「人間同士」という「博愛と基本的人権の尊重第一主義」を振りかざしてしまうと逆に身動きが取れなくなってしまうケースが 少なからずあると思う

 

次は「自殺」についてだが 「いのちの電話」とか設置されているのは 自殺の中でも若年層が多く その数も先進国で指折りだからだが 自殺を禁忌(タブー)として 近頃は考えなくなった 自殺は「死に方」の一つだが それを選んだという点で「生き方の一つ」として認めるしかなく 柳田邦夫の息子の自殺のドキュメント「サクリファイス」を読んでも 近親者に自殺した者が4人いても オランダでは「安楽死」という形態の自殺者が毎年6000人いても 私はクリスチャンではなく宗教の縛りもないからか 頭から否定する気は無い。 作家・画家でも自殺をする人は多いが その作品は 自殺・自然死関係なく イイものはすごくイイ 「マーク・ロスコ」の作品などは 自殺しているのに作品は「生そのもの」とさえ感じられる だから「自殺」という命の終え方もまた そのまま「生」になる と感じるようになってきた ただ…これはまだよくわかっていないのだろうから 明言できるものじゃない

息子に先立たれ 夢の中で出会う筒井康隆の「川のほとり」

1万体余の仏像を彫り上げ 密教の教えに則して 土中に入り即身成仏した「円空

V.ゴッホニーチェの生涯

まだ 色んなものが駆け巡っている ギリギリ寸前まで感じ取れないものかもしれない

 

ロシアによるウクライナ侵攻は まだ追い続けている

現在ウクライナはロシアの軍事施設・石油関連施設を攻撃し 多くの死者を出している 3年前の当初は これは2国間の「戦争」だと思っていた

けれど途中から これは戦争ではなく「侵略に対する自衛」で 他国を侵略しようとする行為を「戦争」と呼ぶのであって なにか重大な間違いを犯していた気がした

日本には「自衛隊」がある 憲法で「戦争放棄恒久平和」を謳っているのに 自衛隊の存在に疑問を持ったが 「では侵略行為という略奪・殺人・強姦・拉致を容認するのか?」と自問すると「No」となってしまい 自己矛盾を起こしていたことに気づいた

「非暴力不服従」という選択もあるが 争いをどうしても止められない人間存在を思えば ロシアに向けての300kmAtacms攻撃も 毎日1500人に上るロシア兵死傷者も 民間施設をお構いなく攻撃するロシアよりは随分マシという気がし これが「戦争行為」であったとしても 否定できるものではない気がしてきた「殺し合い」という死の在り方…

やっていることは「土地の奪い合い」だが そのために数十万人の命が失われる

これを「自殺行為」と呼べるものではないだろうし

深く考えもせず「平和 平和」を連呼するわけにもいかない

理想は捨てるものじゃない。 

ただ「遠い」ことだけは確かで 

その間 多くの人々が 実に様々な「死」を体験する

 

尻切れトンボ…の話になってしまった

 

kei