kei 「蜘蛛の糸Ⅱ」

2023年3月退職 後の生と死を「絵と言葉」で考えたい…4月からは「画家」か?「肩書を持たないただの人間」として生活していこうと考えています。

「非完成」

ミケランジェロは何度か取り上げたので 画像が依然と重複するものもある

ただ 今当該作家の制作について触れる理由は「AI」という万能にして 完全に描くことができる作家?に対峙するには どういうアプローチがあるのか考え続けているからだと思う 沢田研二氏「時の過ぎゆくままに」 彼の音の外し方も アプローチの一つだと思った 彼は「人間の歌」を求めた その結果があの曲なのだろう…

今はコンピューターでどのような楽器も どのようなリズムも 音色も出せる 人間の声をそれに近づける という方法もあるが それは一過性の様相であるように思えてならない なぜなら「コンピューターに歌わせりやいい。」という歌い手も不要になってしまうのが到達点だから。

私の日記のような記事には主題がない 

ただ「人間という動物」について あーでもない こーでもないと考えているのが文章化している気がする

さて…今回の記事はミケランジェロという西暦1400年代末から1500年代初頭にかけて活躍した彫刻家・画家の「人間」について書きたいと思う それは「コンピューターやAIとは全く異なるという点」で 先ずは私自身の心中に留め置く必要があった 要は自分の制作のためである

「非完成」…こんな言葉は無い。 しかし「未完成」とは全く異なり 「完成の外側」が存在することを こうとしか言語化できなかった

50代の後半ごろ からだろうか(調べていない)彼は「奴隷像」の数々を制作する その典型の一つが

この「奴隷像」である

普通 この作品を見た人は「未完成」と感じるだろう 当時の人々もそう感じた

だが 作者は「完成することそのもの」に対して疑問を持っていた

最も「奴隷の呪縛と苦の負い」を表現するには「ここで止めるのがいい」と彼は判断した 頭も足も大理石のまま…しかしこれ以上の「奴隷像」は見当たらない

それは現代だからこそ感じ取れるものなのかも知れない 

だが AIであれば「彫り切ってしまう」 ゆえにAIは「完全ゆえに古い表現」

実際 次々と発掘される ギリシャ・ローマ彫刻を観察し影響を受け それらに比肩する いや それ以上と言えるほどの完璧な作品を若い頃から創ることが出来た

ローマ・カトリック教会の最重要建築物「システィナ礼拝堂」に配置されている「ピエタ」 精神性及び技術の点で 当時から「至宝」として扱われたことだろうし ミケランジェロ本来は「絵画でなく彫刻」に真髄があるので 同礼拝堂の天井壁画と「最後の審判」は 仕方なくやらされた。

このように完璧な技術を持っているのに 奴隷像の表現ではそれをしなかった。彫刻の「前衛性」という観点で考えると ずっと後のロダンさえ超え 直接人間の石膏どりをして作品化する 現代彫刻「ジョージ・シーガル」が出てくるまで「最前線」であった 即ち「400年以上も破られない記録」と言っていいものであったと思う

 

ミケランジェロにとって「完成は無く 未完成もない」 「完成の視点」で彫っているわけではない これを前衛と呼ばずして これを人間的と呼ばずして 誰をそう呼べるだろう

89歳 死の前日まで彫っていたとされる「ロンダニーニのピエタ

脚部はしっかり彫られているものの イエスとマリアの顔は彫り切っていない

では 作者当人に「彫る気があったのか?」と問えば 私は「どうでもいいこと。なぜなら『完成など無い』」と言っている気がする

この作品は「非完成」であり 死の前日までノミと槌を握っていたのは ただひたすら求め 神のみ元に帰ろうとしていたのだろう…と察する

彼にとって イエス・キリスト聖母マリアは「朧な顔」 それが「神」だった

 

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