歳をとるということ 人の名前が憶えづらい割には 覚えてもすぐに忘れてしまうこと
顔は忘れにくいのに 名前を覚えないのは老化現象の顕著な例の一つと思いながら
別の理由もある気がする
5年続けているもう一つのブログ 今ではもう一人の書き手がメインとなっているので私はここで書いた記事を たまにコピペして貼りつけたりして「乱入者」みたいな役割をしているに過ぎない
もう一人の書き手が「生きづらさ」という題名で記事を書き 私はそれを読んでいた
内容は私と反対と言えるほど「マトモで 率直で 正直」である
ただ 私はその記事の付記として口出しをしてしまった 「ヘンな人間が何を考えているか」を付け加えたのだと思う
「生きづらさ」の記事には「精神障害」についての言及があり その辛さについて述べられていた そうだろうと察しながら 今の私はどこか違う思いで生きている気がしたのでこう書いた
kei:おいらとしては「全て人」だと思うようになってきています。
「犯罪者」「高齢者」「障害者」「貧乏人」…ロシアを統べる醜き者も 「死んだ人」も 養老孟子さんの言葉から影響を受けたんだと思いますが 分類や細分化ばかりを進めていると 人はどんどん人でなくなっていく気がします
なぜ顔は覚えるのに名前を忘れてしまうのか というのは「その人」と記憶しているようで どうやらこの思考回路がそうさせているようです
分類と細分化の時代
国際関係と力の時代
貧富の格差増大の時代
性の分離と融合の時代
生と死の峻別の時代
ルックスと頭脳の時代
これが現代の様相だとしても
どれも全て「人」ということには変わりがないので ある事柄やエピソードに執着するのは どこかおかしい…と感じるようになってきています
そういえば どうして「歳をとると涙もろくなってしまったのか」という自分の変化についても 自他の境界線が歳と共にボンヤリし 薄くなってしまうせいなのでしょう
「ウクライナ問題を重要な事柄と考えるか」という設問に対して「重要」と回答するのは70代 60代と年齢が高い人々で 戦争ゲームに熱中する20代の若者は「あまり興味がない」という回答が40%くらいだったかと思います
それを「世界を 現実を知らない」と叱責する老人の意見もまた独りよがりです
若い人々は今自我を形成するために「自分自身に執着」するのが当たり前なのかもしれないのですから
「相違を見つけ出し 分類 整理し 発達してきた人類の歴史」
命の終わりが近づけば近づくほど それとは逆の方向に人は歩いて行く気がします
kei
宇佐美圭司 画