2020年01月27日記事
走馬燈(灯)というのは 「死の直前 幼いころから今まで記憶が回転しながら映像として蘇る。」という例えとしてよく使われる。本当にそのような現象が脳内で起こるものなのかどうなのかは「死人に口なし」であるため わからない。
ただ 私が今朝方見た夢は高校生程度の年齢で 10人ほどの男女が他愛もないことを話し、私はその中にいた。その中の一人の女子はつきあって日の浅い明朗な女子だった。恋の効果もあってか、話は止めどなく笑いに満ちていた。
そうして目が覚めた。 私は57歳に戻っていた。
その後朝の支度を終え、駐車場まで2つの公園を横切りながら さて・・・と考えた。
人間の心または魂には年齢があるのか?
50歳を超えて仕事をしている夢も見れば、このように若者に戻る夢もある。
何故なのだろう
心とか魂といわれるものは本来は「年齢不詳」で、社会生活上「何歳」と自他で認知しているに過ぎない気がするし「個」の世界では意味をなさないのかもしれない。
なぜなら「夢は生きながらにして見ることが出来る走馬燈」かもしれないからだ。
とはいえ、映像の逆回転とは異なり、果たし得なかった望みであるとか、心の中に今尚引っかかっている非現実の映像も映し出される・・・そんな気もする。
もしかしたら 本当の走馬燈もそうであるかもしれず、それを見ているのが大人なのか、老人なのか、青年なのか、子どもの自分なのか、体験なのか、非体験なのか、現実なのか、非現実なのか・・・それらを全部を含め「自己同一性もはっきりしない年齢不定の自分」が映し出されるものなのかもしれない。
私はドラマを見ないので主人公に感情移入するということはあまりないが、あれもまた「走馬燈的ニーズ」から生みだされた代物と言えそうだ。
kei