kei 「蜘蛛の糸Ⅱ」

2023年3月退職 後の生と死を「絵と言葉」で考えたい…4月からは「画家」か?「肩書を持たないただの人間」として生活していこうと考えています。

「釘を打つ」

時折 チラチラ 哲学者ハイデガーについて調べるものの バカでよくわからん。

ただ印象に残る言葉の断片は 自分勝手に扱う箒のように拾い集めることができる

 

①「存在」はハイデガーの中心的概念で それを基に様々な派生概念が生じている

②「存在」とは「人間が自分自身や世界との関係の中で存在することを意味する」

③②についてわかっているものの 私たちは日常的に「存在」をあまり考えることなく生きている

④単に「金槌で釘を打つ」という行為だけでも 「現象学」引いては「存在論」の理解を深めることに通じている

⑤「死への意識を避けないことが真の生き方である」というのは「自己が存在しているという確信」と深く関わっている

…と 自分で書いていて 何が何だか分からなくなってきそうだが

 

「何をしようか考える」「思い通りにならぬと嘆く」「将来にボンヤリとした不安を持つ」等「思い」の大本は 自分が「存在しているから」に外ならず そうであれば「存在そのもの」についてもっとよく考えろ。ということなのはわかる

さらに「存在の確認」は 他者との関わりのみならず 外界との関わり 例えば「外を歩くこと」「釘を打つこと」でも可能である ってところが重要なのだと思う

 

職業の中ではあったが…「不登校の生徒」「引きこもりの生徒」「場面緘黙の生徒」「生きる気力が持てないと言う生徒」いろいろ出会ったし 関りを持った 結果自分がプラスに働いたかマイナスに働いたかは わからない 時間が今も経過しているし 会っても連絡もとりあっていないので…

ただ そのような人と対面した時 私はハイデガーの思想を知らなかったのは確かなことで 知っていたら 相手の理解の仕方も かける言葉も違っていただろうと思う。後悔しても何の役にも立たないが…

ただ ひたすらに 黙々と「釘を打ち付けるという行為さえ 世界と繋がっている行為であり その人が確かに『存在している』ことの実証」であり 事の大小は「存在」に比べれば 虚ろで不安定なモノなのではないか…と考えたりしている

大谷翔平選手」は大事を成した人物だが 「存在」に大小など 本当は無い

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